「1Q84」読みました3

以下は感想というか単なる疑問です。

リトルピープルという不思議な力や、ベッドに寝ている天吾の父親が、青豆の潜むマンションやふかえりのところにNHKの集金人として来るなど、超常現象に対しては、天吾も青豆も何もしなかった。

超常現象それ自体が出来事としてあったのかも曖昧な気がします。

1Q84年」という世界にしても、月の数と高速道路の出口がないだけで、結局は、そんな大変な世界だったのかは、分からない。

青豆も、「1Q84年」の世界について、自分の考え方を変えている部分がある。(自分がその世界に必要とされているのか、されていないのか。)

タマルは、拳銃を青豆に渡す時、自分は、犯罪スレスレだが、犯罪はしていないような言い方をしたような気がしますが、あっさり牛河を殺していました。うーん。読み方がマズかったのでしょう。

牛河の死体から出て来たリトルピープルは、空気さなぎを作りましたが、どうなったんでしょう。
リトルピープルは、犬も殺せたので、タマルも(老婦人も)殺せそうですが、なぜか殺さない。

バシバァ レシーバァと言う設定も、天吾が攻撃(反撃)に出るためのモノかと思っちゃいました。ふかえりと天吾のコンビって…何??

世の中の出来事(オウム事件)と個人(天吾達)とを結び付ける話は、確かに書かれなくていけない気もしますが、なんでそれほど売れるのか。
物語の不思議さも、日本の古典にはあった妖怪や化け物、霊魂のような不可思議さを取り入れていたとして(解説本なんかには書いてある?)も、なぜ多くの読者に受け入れられるのか?
BOOK3のラストは、SF映画のような、さわやかな(でも少し怪しげな)終わり方をしていましたが、みんなエンターテイメントとして楽しんだのかなぁ。

やっぱ頭が悪いので、分かりません。
もしかしたら後世に残るものなのかもしれないすね。
海辺のカフカも読むと分かりますかね。
夏目漱石の後期3部作みたいなもんか。