エバンゲリオン

エバンゲリオン。

そんなに熱心ではないです。以下は、間違いだらけの解釈です。すみません。

でも、シンエヴァンゲリヲンは、気になる。

旧劇では、おかしな結末になってしまっていた。
でも、ある意味、あのようになるのは、テレビ版の結末同様、仕方ない気もする。

テレビ版や旧劇の放映された時代は、アニメはまだまだ今ほど市民権を得ていなかったと思う。

アニメを見るのは、オタクな大人だったと思う。自分も周りも。

時代的には、宮崎事件やオウム事件など、なんとなく暗い。
筋肉少女帯とか、バンドも暗い。

エバンゲリオンの放映前は、パトレイバー以降、しばらくリアルロボットものはなかった気がする。
ファイバードとか、子供向けが続いた年代。

引きこもりやニートも問題視されてきた。

そこにエバンゲリオンが出てきた。
シンジの葛藤は、オタクの、世の中に対する葛藤と重なった気がする。

でも、そこに、救いはない。

シンジの、シトに対する「逃げちゃダメ」だという葛藤は、世の中に対するオタクに当てはめると、アニメを否定して、世の中に出なくてはいけないことになる。

エバンゲリオンは、見る側の問題、メタレベルの問題を解決しなくてはいけなくなる。アニメを超えた問題を提示するアニメ。

エバンゲリオンのテレビ版は、暗中模索して解決策を探し、渚カヲルという他者のようなものまで送り込んだが結局、自意識の壁は破れず、最終回は、さんざん悩んだ挙げ句、現実逃避に至る。

旧劇も、実写パートまで作って、現実を映画の中で見せたが、うまく着地出来なかったように思う。

本来、庵野監督の中には、上記のようなオタクと世の中の対立構造と、それとは別の無邪気とも言える敵を倒すオタクアニメの両方の側面があると思う。

シンゴジラは、無邪気な敵を倒す方だけで作り上げた。だから爽快。オタク全開。

でも、エバンゲリオンはそうはいかない。そこに悩みがある。

しかし、時代は変わっていく。オタクは、市民権を得て、日本アニメは海外にも輸出される。昔のような、オタクの中の、アニメと世の中の二項対立は、薄まったように思う。

新劇場版のQは、テレビ版で、渚カヲルを出した展開に似ている気がする。

シンエヴァンゲリヲンで、どうするのか?
上で、オタクの中の、アニメの二項対立は薄まってきたと書いたが、広まってきたとも言える。

宮崎駿監督は、オタクを作り出したヒトだと(勝手に)思うが、いつの頃からか、オタクの世界に流れなくなった。想像の世界だけど、自己満足しない世界。新世界なので、自己満足できない。

偉そうにすみません。
時間あったので、つらつら書きました。